負の感情がどこから湧くのかについて

今日は朝からイライラしてて、

その原因がいまいちわからなかった。

寝不足や忙しさで心の余裕がなくなっているのは確かだけど、

それだけが原因なはずはない。

寝不足だからと言って必ずしもイライラするわけでもないし、

忙しいと必ずイライラするわけでもないから。

 

この感情の本質はどこにあるんだろう?って色々考える中で、

「あの人にこんなこと言われたのが嫌だったのかな?」とか、

「あの人のあの態度が嫌だったのかな?」とか、

いろいろイライラのきっかけになりそうなことは思いつくけど、

それらのことがなんでそんなに嫌だったのか?答えが出なくて

考えれば考えるほど、イライラしてしまって、

負のループに入りかけていた。

 

そんな状況の中、今日はお昼を食べに、人気のスンドゥブ屋さんに行ってきた。

お昼ご飯を食べながら友達と話してたら、

「不安」というキーワードが出てきて、

「これだ!」って思った。

私は最近漠然とした不安を抱えていて、

そのせいで、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまってて、

全ての出来事を不安フィルターで見てるからイライラするのだと気づいた。

 

その不安をちゃんと認めてあげて、

そんなに大したことないよって自分に言い聞かせてあげることで、

びっくりするぐらい、気持ちが明るく前向きになった。

 

結局、いろんな負の感情は不安から生じてるんだろうなって

改めて認識できて、

今後は、負の感情が湧き起こって来たら、

その裏にある不安を探ってみることにしようと思った。

 

もう一つ、「国家の尊厳」を読んでる中で、

『民主主義の主役であるでーもすは、霊魂や父から与えられた共同蓼の役割、すなわち「自分らしさ」を奪われた人たちでした。その結果、自分自身が何者であるか、アイデンティティの不安手に悩んだ彼らは、性愛と攻撃性を増していくことになります。』と書いてあって、

わーまさしく、現代社会だって思った。

霊魂から離れて生きていて、自分とは何者なのかがわからなくて、

だから不安が生じてしまって、

そのせいで、攻撃性、競争性が優位になり、自己中心的な行動をする人が増えて、

どんどんみんなの心がすさんでいくのだろう。

 

私自身、自分の霊的な部分につながって、

不安の反対の感情である愛をベースに生きようと努力しているから、

この言葉がビビッてきて、

現代社会の権化的存在だと思っていた先崎さんまでも

こんなことを考えていたことにすごく感動した。

まあ、私が考えていることとは若干ずれるけど。笑

自分の意見を言うことついて

以前までは、私は思ったことはほとんどなんでも口にして、

相手がどう受け止めるかとか、相手がその言葉を必要としているかとかを考える前に、

自分の都合で、自分なりの正義感で、思ったままのことを発言していました。

 

しかし、それによって、

自分が想像していた以上に人を傷つけてしまうことや、

言いすぎてしまった。って反省することが立て続けにあり、

自分の気持ちはどこまでいうべきなのか?

どうやって、伝えたらいいのか?っていうことを考えていました。

 

私が出している結論としては、

私は言いたいことを言いたいし、

思っていることを自分の心の中にとどめておくことは誠実ではないと考えている。

だからこそ、相手が傷つくとしても、相手に嫌われるとしても、

私の意見は包み隠さず伝えたいと思った。

 

そこで、どう伝えれば、相手に伝わり、

押しつけになったり、「否定されて怖い」っていう印象を相手に与えずに済むかをすごく悩んでいた。

 

まだ、結論は出ていないけど、以下のことを気を付けて話すようにしている。

まず、ちゃんと、言葉を選んで、感情のままに話さないこと。言いたいことがあっても、すぐに言葉にせず、いったん頭の中で反芻して、どのような言葉を使って、どう伝えたら相手を傷つけずに、伝えたい真意が伝わるかを考えるようにしている。

 

次に、「あなたのためを思って言っているの」とか、「これはやさしさで言っているの」という態度を取ったり、実際に言葉にして言わないこと。私が思ったことを伝えることは、相手にとってどうであるかよりも、自分が相手に伝えたいという気持ちの方が大きいから口に出しているのは確かなので、相手のためだっていう風に押しつけないことにしている。

 

相手のために言った方がいいのかもしれないけど、感情的には言いたくないと思うことがある時は、逆に感覚に従って、言わないことにしている。

 

まだ、私は未熟で、会話の中でどんどん口が思考よりも先に動いてしまうこともあるけど、

気を付けて話すようになって、私自身、すごく優しくなれている気はする。

 

人間はそう簡単には変われない生き物だけど、

私は確実に、心が広くなっていることを実感している。

周りから見たら、何も変わっていないかもしれないけど、私は自分の変化をほめてあげたい。

 

何を選択するか、何を選択しないか

先日、私はある選択をすることで、

もう片方の選択肢の可能性を失ってしまった。

 

私は選ばなかった方の選択は、どのみち選ぶことはなかったと思うけど、それでも自分にとっての”保険”的な選択肢が消えてしまったことに、少し心の中にざわめきが生じるのを感じた。

 

私はこのままやっていけるのだろうか?っていう不安は少しありますが、選ぶことのない選択肢を持ち続けることを辞めた自分をほめてあげたい。

 

私自身が変われているのだと思う。

よりなりたい自分に近づいているのだと思う。

何もしなければ、どっちの選択肢もキープできていたのかもしれないけど、自分の気持ちに正直になって、そうはしなかった。

だから、前向きな気持ちで自分の選択を受け入れたい。

人生の苦しみがどこから生じるのかについて疑問が少し晴れた気がする

私たちはこどものころから、

親、教師、そのほか周りの大人から

他人には優しくしなさいとか、

他者を愛しなさいとか、

自己中心的に考えてはいけないとか、

我慢しなさいとか、

要するには、自分を優先するのではなくて

他者のことを考えて行動しなさいと教えられる。

 

それを繰り返す中で、

自分の想い、感情、欲求よりも、

他人の欲求や感情、

他者からどう見られるか、などを優先するようになり、

自然と自分の想い、感情、欲求を抑え込むことを覚えさせれれるのだと思う。

 

そうすると自分のことを大切にできなくなるだけでなく、

自分の感情を正直に認めることもできなくなるんだと思う。

それを続けていくと、本来の自分というものをどんどん見失っていくのだと思う。

生きることは、本来の自分を思い出すことであるとすると、

幼いころからとっていた行動は、自分を見失う方向に

自分のマインドを仕向けるものとなっている。

 

そうやって生きていると、人生がつらく、苦痛に満ちたものになるのだと思う。

 

神との対話 I」の中で、

「最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ」

と書かれていて、とても驚いた。

私が知っている愛情とは、ちょっと違う気がして。

でも、この中でいいたいことは、人間関係で大切なものは、

自分がどうありたいかということだけで、

相手がどうであるか、

相手が何を与えてくれるか、

相手が何を求めているかなど、

相手に関することではないということである。

なぜならば、人間関係を築く目的は、自分を知るためであるからだ。

人間は相対的にしか存在を認めることができないため、

他者がいて初めて、自分という存在が可能になる。

自己を確立するために他者との関係が必要になり、

生きる目的がそもそも、「自分の存在とは何かを思い出すこと」であるとすると、

自分は何かを知るために人間関係があると考えるのは、ごく自然な流れである。

 

それによって、自分をちゃんと愛せるようになって初めて、他者を愛せるようになると思うと、

「最も愛情深い人は最も自己中心的な人である。」というのも納得がいく。

 

私も、もっと自分の感情としっかり向き合って、

遠慮せずに自己中心的な人間になろうと思った。

 

「あなた方が自分のためにすることは

他者のためにすることである。

他者のためにすることは自分のためにすることである。」

自分に嘘をついて生きているから、生きることがつらくなるのか?

自分に嘘をついて、

自分の感情を誤魔化して、

自分に「こうするべき」と言い聞かせて、人は生きている。

それが苦しみの原因になっているのかもしれない。

感情は自分の心を反映していると実感したことについて

起こる出来事に対して感じる感情は、

人それぞれである。

プレゼントをもらったら嬉しくなることが多いい、というように

そこにはある程度の一般性はあっても、

出来事によって感情が決まるのではなくて、

起こった出来事を心がとう捉えるかによって感情が決まる。

 

相手のことを思ってしたことや、

発した言葉であっても、

相手には迷惑であったり、相手を傷つけてしまうこともある。

それはなんでなんだろう。私が悪いのかな?ってずっと考えていた。

でも、よく考えると、「相手のことを思っている」つもりになっているだけで、

そういう時は必ず自分のエゴがその言動の裏に隠されていると思う。

言い換えれば、自己防衛や自己顕示欲が含まれているんだと思う。

 

自分は我慢して、努力して乗り越えてきたことに対して、

すごく不平不満を言っている人を見ると、

「それぐらい我慢しなさい。」と思ってしまうような感情もあると思う。

この感情を何と表現するのかわからないし、

それが自己顕示欲に含まれるのかわからないけど、

無意識にこういうことを思ったり感じたりしてしまい、

人は相手に対して、純粋な思いやりだけで接することが妨げられているんだと思う。

 

イライラしてしまうときも、

自己顕示欲が働いているんだと思う。

自分の価値を見くびられたと、無意識的に感じてしまって、

相手の意識を自分に向けるために、イライラした言動をしてしまうのかもしれない。

また、無関心になるのも、同じ仕組みなのかなって思う。

 

人は所詮、自分中心にしか物事を考えることができない。

どんなに他人を思いやろうとしても、

相手の立場に立って考えようとしても、

結局は自分の視点から逃れることはできないし、

相手のすべてを理解することなんてできない。

だから、相手のことを思いやろうとしても限度がある。

 

今回気づいたこととしては、

自分が相手に対して自分のエゴを出してしまうと、

傷つけられることが起こるか、相手を傷つけることをしてしまう。

自分をちゃんと愛して、自己価値を自分でちゃんと評価できていないと、

他人の言動に振り回されることになってしまう。

それは、相手のことをどれだけ考えられているかとは別で、

心の中に、そういう自分の暗い影のようなものを持っていると、

人間関係において、軋轢が生じてしまうのは仕方がないことなのかなと思う。

だから、こういう時は、相手を思いやる努力だけではなくて、

自分を大切にする努力も必要なのかなって思う。

自分のことをちゃんと知って、自分のことをちゃんと大切にできない人が

他人を知って、大切にできるはずがないって思うから。

優劣について

人は、社会で生きていく中で、

善悪で物事を判断する癖を

さいころから身に着けてしまいがちだと思う。

 

例えば、この食べ物は体に「いい」だの、「悪い」だの、

授業を静かに聞ける子供は「いい子」で、聞けない子は「悪い子」、

そんな感じで、あらゆるものに、「いい」「悪い」の評価が付けられがち。

 

だけど、そんなのだれが決めたの?

多角的に物事をとらえたら、

そんな単純に分けられるものではないし、

2元的な価値判断を重要視する必要はないと私は思う。

色々な物事をいい悪いで判断しないで生きようと思っても、

その癖は私にあまりにも強く染みついていて、

抜け出すのにとても苦労した。

 

努力の甲斐もあって、

2元的な考え方から抜け出せたと思う。

そのおかげて、

以前よりも多様性を受け入れられるようになったと

自分で感じていたりもして、

自分でも「成長したな」と自分をほめたたえていた節もある。

 

だけど、最近のとある出来事で、

私は違う評価判断に頼るようになっていただけだったのかもしれないということに

気づかされた。

それは、何かというと、優劣の判断軸。

 

何事にも、こちらの方がよりいい、こちらの方が劣っているという感じで、

自分の中で物事に優劣をつけていたのだと気づいた。

これは善悪に似ているけど、

善悪だと、「悪」に入るものは排除する方向に働き、

「善」が絶対視される傾向にあるけど、

「劣」は必ずしも切り捨てられないし、

全てを受け止めたうえで、ランキングされるという点で異なっている

と私は考えている。

だけど、本質的にはその二つの評価判断はそんなに変わらないと思う。

 

人はみんな、それぞれ必死に生きていて、

それに優劣なんてないはずなのに、

そして、自分もより「優れた」人になろうなんて思わなくていいのに、

より「優れた」人になるようにって自分に課して、

自分を苦しめていたのかもしれないって思った。

 

別に、より優れているかどうか、考えなくても、

自分の心に聞けば、自分が一番心地よいあり方を示してくれる。

それが、本当に心地よいものであれば、

周りの人に害を及ぼす生き方にはならないはずだから、

頭で考えて優劣に沿った生き方をするのではなくて、

心が一番心地よい生き方を選んで生きていきたいって思う。