考えることについて

私は、どうしても考えすぎてしまう傾向にある。

ヨガの先生にも、考えすぎだと言われたし、

友達にも、もっと自分の感性を大切にして、

思考から解放された方がいいと言われた。

 

確かに、考えることで苦しいこともあるし、

考えても考えても、どうしても答えが出ないものの方が多い。

だけど、どうしても考えることを辞めることが

怖いというか、成長できないと感じてしまって、

考え抜けるところまで考えてしまう。

 

私が考えてしまうことといえば、

頭では理解していても、

心がついていかないことについてである。

一番わかりやすい例でいえば、

私は日本の伝統文化の価値について、

言葉や思考では、理解をしているつもりでしたけど、

心から、それに価値があると思えていなかった。

だけど、ずっと、それについて考え続けてことで、

ある日、今まで見ていたものがすごく美しく、豊かに見えるようになり、

心から、伝統や文化を大切にしたいって思えるようになった。

そんな感じで、考えられるところまで考えて、

そのあとにくるブレークスルーによって、

ぶれることなく信じるものができるのだと

私は思うようになったのかな。

 

それと、私はこれまで考えることをどこかで諦めることで、

生きやすくはなってたけど、

結局、ずっと心の満たされなさを抱えて生きていて、

その満たされなさを

もうこれ以上放置したくないって思いもあるのかも。

 

キリスト教に対してなじめなさを感じるのは、

神にゆだねることで考えることを放棄している感じがするからだと思う。

でも、哲学者とかのように考える人は幸せそうというわけでもないし、

考えることに答えがあるとも思わないけど、

考えることを諦めて、それらしきことを信じるふりをすることで

私の心の満たされなさが満たされるとは思えない。

本当に満たしてくれるのは神の愛しかないのかもしれないけど、

それを本当に信じ切れていない段階で

思考を放棄することで信じようとしても、

心の底から信じれていなければ、

クリスチャンになっても、この心の穴は埋まらないと思う。

ぶれない信念になるほど、ちゃんと信じれるものが無いと、

他の人の価値観に揺らされ、踊らされて、

いつになっても、本当の心の平穏は訪れないと思う。

 

考え続けることは、

体力も忍耐力も要るし、

楽しいことばかりではないし、

むしろ辛いことも多いけど、

それでも、私は諦めたくない。

考え抜いた先に、

気づきや価値観のブレークスルーがあったときの

なんとも表現できない充足感と

大きな悦びがあることも私は知っているから。

 

それに、私はそれを経験するために生まれてきている気もするし。

わざわざ、有限な肉体と、

自分の霊を覆い隠して自分自身を惑わそうとするマインド

をもつ人間として生まれてくることを私は自ら選択しているのだから。

肉体とマインドがあるからこそ、苦しみが生まれて、

それを体験しながら

それが何なのかを考えることなんて、

人間として生まれてこなければ

味わうことができなし、

自分なりに答えを見つけ出したときの快感は、

それがどんなにありきたりの答えだったとしても、

悩んだものにしか味わえない快感でもあるし。

生きる苦しみについて

人間って、もしかしたら苦しみを感じるために生まれてきているのかも。

生きる意味とは、

苦しみを感じ、それを乗り越えようとstruggleすることなのかもしれない。

そういう風に思うと、なんか人生が楽しく感じられる。

苦しみを乗り越えることに喜びを感じられる。

 

苦しみというものを少し客観的に見ることができると、

自分が感じている苦しみも愛おしくく思える。

そう思えるといういことは、この考え方に少しは、本質的なものが含まれている証かな?

 

苦しいことも、全て受け止めて、

大切にしてあげたい。

不器用で、不細工な生き方だとしても、

自分が一生懸命生きていることを思いっきり肯定して、

大きな愛で受け止めてあげたい。

自分に対して、そういう風に無条件に受け止めれるようになったら、

他人も、広い心で受け止めてあげられる気がする。

文化は人の性格にどれぐらいの影響があるのだろうか

人の性格は、それぞれに違うと思うし、

ある国民がみんな同じような性格、人格を持っているはずもないけど、

国民性というものは確かにあるように思える。

そして、国民性というのは、

個々人の先天的な性格が総合されて国民性となっているというよりは、

国民性という、その国の価値観の枠組みが先にあって、

それが個々人の性格や行動様式に影響を与えいているのだろう。

 

最近読んでいる本に、日本人の志向について書かれていて、

そこでは、「詰める」ことに関して面白いことが書かれてので。

その本に書かれていたことを少し抜粋します。

「ですから、日本人はただ「見たり」「思ったり」「息を吸ったり」してはダメなのです。何かを真面目に真剣に一生懸命にしようとする場合には、必ずもっと「詰め」ていかなければダメなのです。そうすれば、「見る」のは「見つめる」ものとなり、「思う」のは、「思いつめる」となり、行きは「息を詰める」となるのです。…日本人にとっては、詰めることができないものは、詰められ愛もの、すなわち『つまらないもの』になってしまうのです。」

 

私が考えすぎて、「思いつめてしまう」傾向があるのも、

こういう価値観がもとにあって、

「詰めて考えることが重要だと」思い込まされているからなのかもしれない。

 

もっと気軽に生きたいなとか、

いちいちそんなに考えなけらば、もっと人生楽しくなるのかな?って思うこともあるけど、

それがどうしてもできない。

それを自分の性格のせいにしていた部分もあったけど、

この本を読んでいると、

もしかすると、それは後天的に作られた自分の癖のようなもので、

直せば、直るものなのかな?なんて思った。

 

要するには、詰まらない人間になりたくないという

無意識の強迫観念に駆られて、

思いつめるようになってしまって、

それがあまりにも当たり前のことになってしまったがゆえに、

それが自分の性格だと思い込んでいるのかな?ということ。

 

育った環境が自分の性格に影響するということはよく言われるけど、

自分の先天的な性格と、後天的に獲得したものの区別をつけるのはとても難しいと思った。

果たして、どこまでそれを区別することに意味があるのかは怪しいところではあるけど、

自分が生きやすいような自分になる時に、

意外と文化的価値観に思考や行動が縛られていることを意識するだけで、少しはそれから抜け出しやすくなるのかもしれない。

 

 

 

たまには、思いっきり泣く

急に、無性に

悔しく、

寂しく、

悲しく、

理由もわからず、涙が出てきて、

それとともに、

よくわからない怒りや

やりきれない気持ちが

溢れるように出てきた。

そして、久しぶりに、

声を出して、

わんわん泣いた。

 

涙が引いた後も、

この感情がどこからきて

どう扱ったらいいのかわからなかったけど、

とりあえず、感じるだけ感じて、

そして、手放そうと心に決めました。

 

そしたら、心が徐々に軽くなって、

すっとナーディーが浄化されたような感じがした。

 

シャワーを浴びて、

ヨガをしてみたら、

いつもよりも、気持ちがよく、

気分まですごく明るくなった。

 

私の心に住み着いていた

あの暗い、寂しい感情が

解放されたのだろう。

こんなすがすがしい気持ちは、

いつぶりだろうか。

たまには、思いっきり泣くのもいいね。

感情との向き合い方

自分が感じる感情を、

自分でも気づかないうちに

封印してしまうことを身に着けてしまった。

そのことに気づくことができたのは、

本当に最近。

 

幼いころ、

ちょっとしたことですごくイライラして

母親に思いっきりキレることが多かった私。

本当は、母親のことが大好きなのに、

どうしてもコントロールできないほどの怒りが

母親に対して、湧き上がってきていた。

 

私はなんで、あんなに些細なことで

そこまで怒りが湧き上がっていたのか

未だにわからない。

例えば、母が畳んでくれた洗濯物の畳み方が気に入らなくて

私は怒りが爆発していた。

からしたら、どこに地雷があるのかわからなくて

さぞ、辛かったと思う。

私も、この怒りの原因がわからなくて

すごくつらかった。

だけど、最近気づいたことが一つある。

その怒りは、もしかしたら、私の心のSOSだったのかもしれない。

「こうでなければならない」という思い込みが

私にはとても多くて、それがつらかったのかもしれない。

そう最近思うようになってきた。

もっと自分らしく、ありのままでいたい。という、

心の叫びだったのかもしれない。

だけど、そんなことに気づいてあげられずに、

より一層自分を型にはめようとしてしまっていた。

 

人にあたってはいけないとわかっていても、

どうしても、母親や家族にあたりたくなることが多かった。

その感情をどうコントロールすればいいのかわからず、

その感情を押し殺したり、

気にしないふりをしたり、

なるべく感情を感じないように封印することで

どうにか、過ごしていた。

そうして、より一層、

自分の心まで

「あるべき姿」の型にはめてしまっていた。

本当は、

その感情を受け止めて向き合ってほしいというサインだったのに。

 

最近は、感じる感情をすべて肯定してあげて、

思う存分、表に出してあげるように、努力している。

私の中にいる、ちいさいなっちゃんが、

少しずつではあるけど、

癒されてるといいな。

 

すごく寂しい。

私に気づいて。

私を受け止めて。

と、強く願っている、

私の中にいるちいさいなっちゃん

誰かに愛してもらうのを待つのではなくて、

自分で思いっきり愛してあげよう。

 

こうして、少しずつ、私の心の傷が癒えていきますように。

心のブレーキ

最近、どうしてもやる気がでない。

 

「やる気スイッチなんてない。

やっているうちに、やる気が出てくるもの。

毎日コツコツとするしかない。」

そういわれても、どうしてもできないことがある。

それがなぜなのか。わからなくて、しんどい。

だけど、どうしても、手が動かないし、

やろうと思えば思うほど、心が重くなる。

 

だけど、やらないといけない。逃げれない。

でも、これも私の中での思い込みなのか?

いや、どうでもいいから早く済ませないと。

そう思っても、どうしてもできない。

苦しい。

 

なんでなんだろう?

自分がやっていることに価値が見いだせないからなのかな?

もしも挑戦して、できなかったら怖いから?

自分に劣等感を抱いているから?

そんなことでもない気がしている。

だけど、これがなんなのかがわかるまで、動けない。

これも、私の思い込み?

だけど、この感情を無視したくない。

なのに、どう向き合ったらいいのかわからない。

ただ、逃げてるだけなのか?

考えすぎなのか?

私は何がしたいのだろうか?

それは、具体的な実態のある「何か」という意味ではなくて、

心の在り方として、何を求めているのだろうか?

という意味で、私は何がしたいんだろう?

と自分に問い続けて、答えが見つからずに、動き出せずに、困り果てている。

 

自分が生きている意味、それを見つけたくて、

だけど、そんなものおそらくなくて、

見つけることにもそんなに意味はないのだろう。

それでも、探し続けている。

探し続けていることに、意味があるのかもしれない。

 

能動的に、この命を生きているという実感が欲しい。

それが、どうやったら生じるのかわからない。

作られた価値観に踊らされて、生きることを強いられている気がしてしまう。

何かをしようと思ったとき、それは、本当に自分の心からやりたいからなのか?

それとも、それに伴う評価を求めてやっているのか?

ということを自分に問いてしまう。

自分の評価をあげる行動を、自分の心に反して行うことを避けようとするあまり、

今のような「やる気のなさ」につながってしまっているのかも。

 

どう頑張っても、人間は他人の影響を受けながら生きる生き物で、

本当の意味で評価を逃れて、自分だけの人生を生きることなんてできない。

自分の発する言葉も、誰かの受けより出しかなくて、

自分らしさというものはある意味幻想なんだと思う。

自分らしさがあるとすれば、

既に存在するものを私だけの組み合わせで発信することぐらいで、

発信するものが本質的に独創的だというわけではない。

それで充分なんだと思う。

私は、どういう組み合わせを作って、どういう色をまといたいのだろうか?

 

自分という存在を問い続けることに、

私は自分の生きている実感を感じているのかもしれない。

 

知らぬが仏という言葉あるように、

いろんなことを知ることは苦しいことでもある。

それでも、「知は力なり」という言葉あるように、

私の力にもなってくれるはず。

知れば知るほど、身動きが取れなくなる感じもあるけど、

もっと、知識をえれば、それを打破できるのかな?

 

昔、私は、世の中のことを憂いて、泣いていたことがある。

なんでみんなもっと真実を知ろうとしないのだろう。って本気で思っていた。

みんなで知って、みんなで考えて、問題に向き合えば、

もっと明るい未来が見えるはずなのに。

だけど、真実を知ってそれを受け止めれない人もいるのかな。

知っても、それに対して何も感じない人もいるだろうし、

それは、人それぞれの魂の求めていることによって違うんだろうし、

押しつけることはできないよね。

だから、私は、それを憂いたり、どうにかしないといけないと思う必要はないのかも。

すべて背負い込もうと無意識のうちにしていたのかも。

この仕組みを変えていかないといけないと思っている節はあるしな。

嫌だと思ったことは口にしない時がすまないし、

気づいたことはよくしていきたいと思う。

それが、私のコントロールの範疇を超えて、

変えたいと思ってしまっているのだろうな。

それに対して苦しみを勝手に感じてるんだろうな。

 

世の中をよくしたい。

そのために、一歩でも近づけることがしたい。

小さいことでもいい、と思いつつも、

大きいことがしたいという願望を強く抱いているのだろう。

この気持ちを無視せずに、目の前の小さいことをするためには、

どういう心構えで過ごせばいいのだろうか。

生きることについて考える

生きるということはどういうことなのか?

 

辞書的にいうと、生きるとは生命活動を行うことで、

人間でいうと、食べて、寝て、排せつして、日々の生活をすることが生きるということなのでしょう。

定義上は私も生きています。必死に生きています。

ですが、自分の意志で生きている感覚も、

生かされている感覚(神か天か自然によってなのかわかりませんが、自分の意志を超えて、何かの力によって命を与えてもらっているという感覚)もありません。

どちらかというと、無理やり生かされている感覚や、

何かわからない大きな力に私の生命が踊らされている感覚を覚えてしまいます。

この命を享受しながら自らの意志で生きているという感覚が欲しいのです。

 

多かれ少なかれ、現代社会を生きる人の多くが私と同じような心境を抱いているのではないかと思います。

少なくとも、生き辛さを感じていたり、漠然とした満たされなさを感じたりしながら生きている日本人がほとんどなのではないかと思います。

 

そのような思いって、どこから来るのだろうか?

こんなことを最近ずっと考えていて、私なりに仮説ができたので

今回のブログでは私の考えをまとめるために書きます。

 

物事には善悪があるように思えますが、

全てのことやものは多面性を持っているため、いい面もあれば、悪い面もあります。

その中で、何かを大切にするということは、何かを切り捨てることにもなります。

そのとき、人間にとっての判断軸となるのがいわゆる「価値観」だと思います。

その価値観は、何をベースにするのか?

現代社会では、科学、効率、合理性が行き過ぎており、

全てが数値化できるかの如く、定量性が重視される様になっています。

そのような背景からも、数値的判断をベースに価値判断を行ってしまっていることが多いと思います。

だけど、人生において、本当に大切なものって、客観的に数値化できるのでしょうか?

私は、はっきり「NO」と言います。

数値化できないことにこそ、人間にとって本当に大切なものが詰まっているのではないか?と最近思うようになってきました。

そういう数値化できないものを感知する働きが、心の働きであり、

その奥で「大切なもの」を感知しているのが霊なのではないか?と思います。

 

日本人はその霊を見失いつつあるため他の判断軸が必要となり、

そのためわかりやすい数値に頼るようになったのではないか?と思います。

それがすべての生き辛さの根源なのではないかと思うようになりました。

 

社会を見渡すと、様々な問題がはびこっています。

例えば、農業。

農業が商業化して、様々な技術の進歩により、農業労働がマニュアル化され、

農業従事者でさえ、作物管理ができなくなっている状態陥っている。

そのような状態を改善するために、作物を農業の主人公として、

農作物の生育にもっと目を向ければそれでいいかといわれると、そうでもない気もしてしまう。

それは、作物を育てる技術がないからというだけでない。

それは、ちゃんと作物と向き合う心がないからだと思う。

私自身もそうであるが、作物をよく観察できていないし、

農作物を育てるのは得意ではない。

なぜか、農作業していると、そんな心の余裕がない。

自分で「なぜか」と書いたが、理由は明らかで、

私は心を使って農業しているわけではないからで、

どちらかというと、作業としてこなしてしまっているからなのです。

 

それは、全てのことに言えて、

生活の一つ一つのことに、どれだけ心を通わすことができるのか?

それが、「生きている」という感覚をよみがえらせてくれるのではないか?

そう思っています。

 

そのような心を取り戻すには、どうしたらいいのか?

私はまず、自分の価値観を見直すことから始まるのではないかと思います。

 

自分にとって本当に大切なものは何なのか?大切な価値観は何なのか?

大切にしているものや大切にしたいと思っているものや価値観はは、本当に自分にとって大切なものなのか?

自分が持っている価値観のうち、自分が本当に信じているものはどれぐらいあるのだろうか?

周りから押し付けられているものや、信じさせれれているものはどれぐらいあるのだろうか?

 

知らぬ間に、社会のルールや価値観を押し付けられ、それがあたかも正しいものだと思い込んではいないだろうか?

 

本当に大切なものを再評価しなければならないのではないと思っています。

そういうプロセスを経ても、自分ではわからないという結論に至ったのが私です。

それでも、生きることも、自分にとって軸となる価値観を見つけることも諦めたくないのもまた私です。

そこで、宗教というものの中に答えがあるのではないかと思うようになったのです。