優劣について

人は、社会で生きていく中で、

善悪で物事を判断する癖を

さいころから身に着けてしまいがちだと思う。

 

例えば、この食べ物は体に「いい」だの、「悪い」だの、

授業を静かに聞ける子供は「いい子」で、聞けない子は「悪い子」、

そんな感じで、あらゆるものに、「いい」「悪い」の評価が付けられがち。

 

だけど、そんなのだれが決めたの?

多角的に物事をとらえたら、

そんな単純に分けられるものではないし、

2元的な価値判断を重要視する必要はないと私は思う。

色々な物事をいい悪いで判断しないで生きようと思っても、

その癖は私にあまりにも強く染みついていて、

抜け出すのにとても苦労した。

 

努力の甲斐もあって、

2元的な考え方から抜け出せたと思う。

そのおかげて、

以前よりも多様性を受け入れられるようになったと

自分で感じていたりもして、

自分でも「成長したな」と自分をほめたたえていた節もある。

 

だけど、最近のとある出来事で、

私は違う評価判断に頼るようになっていただけだったのかもしれないということに

気づかされた。

それは、何かというと、優劣の判断軸。

 

何事にも、こちらの方がよりいい、こちらの方が劣っているという感じで、

自分の中で物事に優劣をつけていたのだと気づいた。

これは善悪に似ているけど、

善悪だと、「悪」に入るものは排除する方向に働き、

「善」が絶対視される傾向にあるけど、

「劣」は必ずしも切り捨てられないし、

全てを受け止めたうえで、ランキングされるという点で異なっている

と私は考えている。

だけど、本質的にはその二つの評価判断はそんなに変わらないと思う。

 

人はみんな、それぞれ必死に生きていて、

それに優劣なんてないはずなのに、

そして、自分もより「優れた」人になろうなんて思わなくていいのに、

より「優れた」人になるようにって自分に課して、

自分を苦しめていたのかもしれないって思った。

 

別に、より優れているかどうか、考えなくても、

自分の心に聞けば、自分が一番心地よいあり方を示してくれる。

それが、本当に心地よいものであれば、

周りの人に害を及ぼす生き方にはならないはずだから、

頭で考えて優劣に沿った生き方をするのではなくて、

心が一番心地よい生き方を選んで生きていきたいって思う。