「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。」(西田幾多郎)

私が何をして生きていきたいのか、

どういう人生を送りたいのかを考えていて、

そのことについて、書きます。

 

私は農業に関わりたくて、その方法を模索するために農学部に入ったものの、

農学とは関係ない応用生命化学を専攻していました。

学部時代はプログラミングと数値解析を学んでいました。

でも、やっぱり、農業にもっと関われるところで研究したいと思い、

修士からは、土壌学を専攻しています。

なぜ、農学ではなく、土壌学を専攻しているのかについては、

私は一つの植物に着目することに興味が持てなかったし、

実際に研究として栽培実験をすることにも、興味が持てなかったからです。

そこで、世界中の食糧生産の95%を支えている「土」を研究すれば、

よりよい農業につながるのではないかと思い、

土についての研究をしたいと思うようになりました。

栽培実験に興味が持てない理由は、

栽培実験は制御できない要因が結果にもたらす影響が大きすぎ、

真理を探究するのには向いていないと感じるからです。

農業は、メカニズムがはっきりとわからなくても、

実践的に収量が上がればいい、という側面はあります。

なので、究極的には真理なんて探究できなくてもいいんです。

でも、私は、学術界に籍を置いている限り、実用的なことよりも、

より根源に近いところで、メカニズムの解明を行っていきたいと

思っているんだと思います。

それならサイエンスの道にまっすぐ突き進めばいいのに、

なぜか、迷いが生じてしまいます。

「こんなことをしていて、何の役に立てるんだろう?」

「今の研究は、今後の社会をよりよくするために、活かすことができるのだろうか?」

研究室にこもる日々を送っていると、漠然とこのような不安を感じてしまいます。

 

私は社会と明確なかかわりを持っていたいという願望があるのだと思います。

さらに、私は、自分の働きかけが社会に作用しているのが

目で見えることに喜びを感じるのだと思います。

もしかしたら、人はみんなそういう部分は持っていて、

その思いが強い人がいたり、弱い人がいたり、

個人差があるのでしょうけど、

私は、特に社会との関わりが大事なんだと思います。

そして、私は、自分が直接かかわれる人の範囲を超えた影響力を持ちたい

という欲求を強く持っていることも加担して、

ただただ研究室で研究を進めることに疑問を持ってしまうのだと思っています。

 

研究とは、一つの現象をより細かく見ていくプロセスであり、

それの一つ一つは意味のないようなものに見えたとしても、

より大きな絵の中で、その一つ一つがパズルのピースとしてハマっていくことで、

それが創造的な知につながるものです。

なので、今している研究が単独で意味をなさなくても、

様々な研究の組み合わせの中で意味を成していけばいいのです。

頭ではそう思っていても、

「私は知の創造に貢献できるのだろうか?」

「創造的な知を私は求めているのだろうか?」

という疑念を抱いてしまいます。

自信のなさがゆえに、研究に対する迷いが生じているのでしょうか。

 

研究のことはさておき、

このブログを書くことを通して私が向き合っていきたい問いは、

私が思う「よい農業」とは何か?というものです。

とてもざっくりとしていて、答えなどないのかもしれませんが、

この問いを自分に日々問いかけ、考え続けることで

私が目指したい社会はどんなものか、

その先にある未来はどんなものかを明確にし、

そのために自分がどんな働きかけをしていきたいかを

見つけていきたいと思っています。

 

農業についての勉強をし、

農業現場に足を運ぶことで、

考えるための材料を集め、

そこで学んだことや感じたことを文章としてまとめる経験を通して、

自分とはどのような人間なのかということも

探求していきたいと思っています。