生きることについて考える

生きるということはどういうことなのか?

 

辞書的にいうと、生きるとは生命活動を行うことで、

人間でいうと、食べて、寝て、排せつして、日々の生活をすることが生きるということなのでしょう。

定義上は私も生きています。必死に生きています。

ですが、自分の意志で生きている感覚も、

生かされている感覚(神か天か自然によってなのかわかりませんが、自分の意志を超えて、何かの力によって命を与えてもらっているという感覚)もありません。

どちらかというと、無理やり生かされている感覚や、

何かわからない大きな力に私の生命が踊らされている感覚を覚えてしまいます。

この命を享受しながら自らの意志で生きているという感覚が欲しいのです。

 

多かれ少なかれ、現代社会を生きる人の多くが私と同じような心境を抱いているのではないかと思います。

少なくとも、生き辛さを感じていたり、漠然とした満たされなさを感じたりしながら生きている日本人がほとんどなのではないかと思います。

 

そのような思いって、どこから来るのだろうか?

こんなことを最近ずっと考えていて、私なりに仮説ができたので

今回のブログでは私の考えをまとめるために書きます。

 

物事には善悪があるように思えますが、

全てのことやものは多面性を持っているため、いい面もあれば、悪い面もあります。

その中で、何かを大切にするということは、何かを切り捨てることにもなります。

そのとき、人間にとっての判断軸となるのがいわゆる「価値観」だと思います。

その価値観は、何をベースにするのか?

現代社会では、科学、効率、合理性が行き過ぎており、

全てが数値化できるかの如く、定量性が重視される様になっています。

そのような背景からも、数値的判断をベースに価値判断を行ってしまっていることが多いと思います。

だけど、人生において、本当に大切なものって、客観的に数値化できるのでしょうか?

私は、はっきり「NO」と言います。

数値化できないことにこそ、人間にとって本当に大切なものが詰まっているのではないか?と最近思うようになってきました。

そういう数値化できないものを感知する働きが、心の働きであり、

その奥で「大切なもの」を感知しているのが霊なのではないか?と思います。

 

日本人はその霊を見失いつつあるため他の判断軸が必要となり、

そのためわかりやすい数値に頼るようになったのではないか?と思います。

それがすべての生き辛さの根源なのではないかと思うようになりました。

 

社会を見渡すと、様々な問題がはびこっています。

例えば、農業。

農業が商業化して、様々な技術の進歩により、農業労働がマニュアル化され、

農業従事者でさえ、作物管理ができなくなっている状態陥っている。

そのような状態を改善するために、作物を農業の主人公として、

農作物の生育にもっと目を向ければそれでいいかといわれると、そうでもない気もしてしまう。

それは、作物を育てる技術がないからというだけでない。

それは、ちゃんと作物と向き合う心がないからだと思う。

私自身もそうであるが、作物をよく観察できていないし、

農作物を育てるのは得意ではない。

なぜか、農作業していると、そんな心の余裕がない。

自分で「なぜか」と書いたが、理由は明らかで、

私は心を使って農業しているわけではないからで、

どちらかというと、作業としてこなしてしまっているからなのです。

 

それは、全てのことに言えて、

生活の一つ一つのことに、どれだけ心を通わすことができるのか?

それが、「生きている」という感覚をよみがえらせてくれるのではないか?

そう思っています。

 

そのような心を取り戻すには、どうしたらいいのか?

私はまず、自分の価値観を見直すことから始まるのではないかと思います。

 

自分にとって本当に大切なものは何なのか?大切な価値観は何なのか?

大切にしているものや大切にしたいと思っているものや価値観はは、本当に自分にとって大切なものなのか?

自分が持っている価値観のうち、自分が本当に信じているものはどれぐらいあるのだろうか?

周りから押し付けられているものや、信じさせれれているものはどれぐらいあるのだろうか?

 

知らぬ間に、社会のルールや価値観を押し付けられ、それがあたかも正しいものだと思い込んではいないだろうか?

 

本当に大切なものを再評価しなければならないのではないと思っています。

そういうプロセスを経ても、自分ではわからないという結論に至ったのが私です。

それでも、生きることも、自分にとって軸となる価値観を見つけることも諦めたくないのもまた私です。

そこで、宗教というものの中に答えがあるのではないかと思うようになったのです。