心のブレーキ

最近、どうしてもやる気がでない。

 

「やる気スイッチなんてない。

やっているうちに、やる気が出てくるもの。

毎日コツコツとするしかない。」

そういわれても、どうしてもできないことがある。

それがなぜなのか。わからなくて、しんどい。

だけど、どうしても、手が動かないし、

やろうと思えば思うほど、心が重くなる。

 

だけど、やらないといけない。逃げれない。

でも、これも私の中での思い込みなのか?

いや、どうでもいいから早く済ませないと。

そう思っても、どうしてもできない。

苦しい。

 

なんでなんだろう?

自分がやっていることに価値が見いだせないからなのかな?

もしも挑戦して、できなかったら怖いから?

自分に劣等感を抱いているから?

そんなことでもない気がしている。

だけど、これがなんなのかがわかるまで、動けない。

これも、私の思い込み?

だけど、この感情を無視したくない。

なのに、どう向き合ったらいいのかわからない。

ただ、逃げてるだけなのか?

考えすぎなのか?

私は何がしたいのだろうか?

それは、具体的な実態のある「何か」という意味ではなくて、

心の在り方として、何を求めているのだろうか?

という意味で、私は何がしたいんだろう?

と自分に問い続けて、答えが見つからずに、動き出せずに、困り果てている。

 

自分が生きている意味、それを見つけたくて、

だけど、そんなものおそらくなくて、

見つけることにもそんなに意味はないのだろう。

それでも、探し続けている。

探し続けていることに、意味があるのかもしれない。

 

能動的に、この命を生きているという実感が欲しい。

それが、どうやったら生じるのかわからない。

作られた価値観に踊らされて、生きることを強いられている気がしてしまう。

何かをしようと思ったとき、それは、本当に自分の心からやりたいからなのか?

それとも、それに伴う評価を求めてやっているのか?

ということを自分に問いてしまう。

自分の評価をあげる行動を、自分の心に反して行うことを避けようとするあまり、

今のような「やる気のなさ」につながってしまっているのかも。

 

どう頑張っても、人間は他人の影響を受けながら生きる生き物で、

本当の意味で評価を逃れて、自分だけの人生を生きることなんてできない。

自分の発する言葉も、誰かの受けより出しかなくて、

自分らしさというものはある意味幻想なんだと思う。

自分らしさがあるとすれば、

既に存在するものを私だけの組み合わせで発信することぐらいで、

発信するものが本質的に独創的だというわけではない。

それで充分なんだと思う。

私は、どういう組み合わせを作って、どういう色をまといたいのだろうか?

 

自分という存在を問い続けることに、

私は自分の生きている実感を感じているのかもしれない。

 

知らぬが仏という言葉あるように、

いろんなことを知ることは苦しいことでもある。

それでも、「知は力なり」という言葉あるように、

私の力にもなってくれるはず。

知れば知るほど、身動きが取れなくなる感じもあるけど、

もっと、知識をえれば、それを打破できるのかな?

 

昔、私は、世の中のことを憂いて、泣いていたことがある。

なんでみんなもっと真実を知ろうとしないのだろう。って本気で思っていた。

みんなで知って、みんなで考えて、問題に向き合えば、

もっと明るい未来が見えるはずなのに。

だけど、真実を知ってそれを受け止めれない人もいるのかな。

知っても、それに対して何も感じない人もいるだろうし、

それは、人それぞれの魂の求めていることによって違うんだろうし、

押しつけることはできないよね。

だから、私は、それを憂いたり、どうにかしないといけないと思う必要はないのかも。

すべて背負い込もうと無意識のうちにしていたのかも。

この仕組みを変えていかないといけないと思っている節はあるしな。

嫌だと思ったことは口にしない時がすまないし、

気づいたことはよくしていきたいと思う。

それが、私のコントロールの範疇を超えて、

変えたいと思ってしまっているのだろうな。

それに対して苦しみを勝手に感じてるんだろうな。

 

世の中をよくしたい。

そのために、一歩でも近づけることがしたい。

小さいことでもいい、と思いつつも、

大きいことがしたいという願望を強く抱いているのだろう。

この気持ちを無視せずに、目の前の小さいことをするためには、

どういう心構えで過ごせばいいのだろうか。